バッハことヨハン・セバスティアン・バッハが手掛けたクラシックは現在でも人々から愛されており、結婚式や卒業式など様々な場面で用いられています。それはショパンやベートーヴェンといった18世紀から20世紀の作曲家たちも同様ですが、バッハが他の作曲家たちと一線を画しているのは「音楽の父」と言われている由来です。
歴史に名を残した偉人たちは後世や当時の人々からその人にふさわしい呼び名を与えられます。
例えば日本では戦国時代の有名な武将であり天下人の1人である織田信長は苛烈な行いから「魔王」と呼ばれ、当人もそれを認めました。また病院建築や介護の変革など医療の現場に多大な功績を残したフローレンス・ナイチンゲールは「近代介護教育の母」とも「白衣の天使」とも呼ばれています。つまるところ偉人の呼び名とは箔である事と同時にその人の偉業を最も体現している名というわけです。実際にベートーヴェンことルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは音楽史において重要な作曲家であるため、「楽聖」と呼ばれています。
それを踏まえるとバッハの「音楽の父」という意味はクラシックを初めて誕生させた人物のようにも受け取れますが、彼が生まれた時代である1600年代には音楽は存在していました。しかもバッハが亡くなった1750年から1829年までの間、彼とその曲の存在は世間から忘れられる事になります。
これは当時の対応としては当然で、19世紀の前半までは生きている作曲家たちの曲が演奏されるものでした。反対に死んだ音楽家たちの曲は研究対象でしかなく、それは音楽の父であっても例外ではなかったそうです。ところが1829年3月11日にフェリックス・メンデルスゾーンが行った「マタイ受難曲」の演奏がヒットし、再び音楽の父は受け入れられるようになりました。
しかしそれ以前よりもバッハの曲は密かに受け継がれていたのです。
実はモーツァルトにベートーヴェン、ショパンなど名だたる音楽家たちは鍵盤楽器の練習曲で使っていたのは彼が手掛けた「平均律クラヴィーア曲集」でした。一見すると何の変哲もないようですが、音楽家が他の作曲家の作品を手本にするというケースは全くないのです。
作品のタイトルには練習曲と名付けられたものがありますが、あれはあくまで音楽家自身のためによるところが大きいと言えます。だというのに、弾く際の癖を矯正するためにわざわざ音楽の父の曲を選んで弾いていたショパンのエピソードがあるほどに彼は後世の音楽家たちのお手本となっていたわけです。
音楽の父という呼び名はあらゆる音楽家たちの教師である事を表していますが、もう1つ意味があります。
それは対位法の時代と和声法の時代の橋渡し役となった意味です。
対位法とは複数の旋律をそれぞれ独立させながら程よく調和して重ねる技法で、和声法とは1つの旋律を軸に和音で曲を奏でていく技法とされています。全く異なる技法の転機は音楽を急速に成長させ、ベートーヴェンが活躍した18世紀は和声法が主流でした。その橋渡しをしされていますが、実のところは不明です。音楽史では対位法と和声法の転換期は明確にされておらず、1750年代前後の音楽家たちには2つの技法をそれぞれ用いた者たちもいました。
もちろん1600年代以前の音楽も同様です。彼が橋渡し役になったというのはひとえにターニングポイントに丁度よい人物だからだったと推察されています。いずれにしても彼が現代の音楽史の源流である事は言うまでもありません。あのベートーヴェンも晩年は和声法から対立法に切り替え、彼が手掛けた作品の曲調に回帰していったと言われています。それが音楽史の偉人の呼び名の由来です。
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